2017年08月31日

8.30

今日のテストをもって夏期講習が終わったので、採点がてらそのまま教室で軽く打ち上げる。
「公式の意味を理解しないまま使う姿勢こそ実は知的ではないのか」だの「アフリカにAIに全経済政策を委任する新国家を樹立させるべき」だの、そういう教育に関係したりしなかったりする面倒臭い議論に毎度付き合ってくれる有難い後輩がいて、日付が変わるまで話し込む。
と、数年前に卒業した元教え子がフラッと訪ねてくる。夏休みの宿題が終わらないので徹夜合宿中なのだそうだ。「先生、変わんないっすね」だ、そうだ。「もう30だぜ」と、返す。
結局深夜の帰路、音楽が欲しくなってSpotify探ると、銀杏BOYZが新曲を出している。カップリングは『円光』。もしやと思った通り、大好きな『援助交際』のセルフカヴァー。
当然のように泣く。

posted by 淺越岳人 at 03:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月28日

8.27

SNSやブログでの芝居の宣伝。報せる側でもあるし、報される側でもある。
多くの場合そこにはチケットフォームのリンクが記載されているのだが、そこに付記されている「〇〇扱い」、これについて疑問がある。
とか書くと、すわ「チケットノルマ/バック問題」についての苦言かと思われるかも知れないが、今回考えているのはそこではない。そこに関しては根が深淵過ぎて、考えるのを正直やめている昨今である。

「〇〇扱い」、コレは一体誰に何を伝えようとしているのだ?

個人窓口でのチケットの売上が報酬に繋がる。当然、売る側は自分を窓口としてチケットを売りたいし、買う側は応援する俳優/スタッフから買おうとする。
このシステムについては一般的なものであり、良くも悪くも現実として観客にも広く知られている。そして、知られているという前提でなければ「〇〇扱い」というシンプルな表記にはならないと思う。このシステムを知らなければ、この表現だけで「この窓口からチケットを買うと〇〇さんの利益になるのか」と理解するのは難しいだろう。システムを知らない人に向けた言葉にしては、あまりにも不親切だろう。
また、このシステムを知っている人間に向けたものだとすると別の疑問が生じる。当然その顧客は個人フォームがあることもノルマやバックの存在も知っているし、その俳優/スタッフのSNS・ブログならばその個人フォームへのリンクが記載されているに決まっている。ならば、わざわざ「〇〇扱い」と明記する必要がどこにあるのだろう。他人の利益=自分の不利益に繋がる別のフォームなんてそもそも載せないだろうに。
ではこのケースはどうだろう。もし、このシステムを知らない人がいたとして、この「〇〇扱い」という表記からシステムを読み取ったとする。その個人を応援したいと思うなら、当然そのフォームからチケットを購入するだろう。しかし他の人間を推していたら。「なるほど、そういうシステムか。なら別の△△さんから予約しよう」ということが起こりうるのではないだろうか。その場合、「〇〇扱い」の表記がなければ、なんの疑問も持たずにリンクを踏んでいただろう(まあこの例については一種の「騙し討ち」とも言えるので、それを防ぐために明記する、といつのなら一理はある)。宣伝効果としては、非常に疑問が残る。

何れにせよ、なんとも理解がし難い。ここで視点を変えてみる。

「〇〇扱い」という記載をすることでチケットノルマという「悪しき慣習」を喧伝することになる、という批判をときどき目にする。個人的には実際にそういうシステムである以上、顧客に隠すのも不誠実だろうと思うのだが、なるほどこの意見は示唆的かもしれない。
これは換言すれば、「〇〇扱い」と書くことでシステムの存在を暗に示す、という効果があると言えるのではないか?「ノルマがキツいから買って」「売らなきゃマズい」みたいなマイナスな言葉の宣伝効果には疑問が残るし、第一下品だ。しかし、どこかでそういった「必死さ」が、「頑張り」と評価されるのも事実であり、それが販売に繋がる。そう考えると、直接的な表現を避けつつ、システムの存在を理解している人に「臭わせる」表現として、「〇〇扱い」という言葉は絶妙だ。生々しくなく押し付けがましくもない。あくまでも「わたしの窓口です」と示すだけで、そこからは強制力は感じない。しかしその背景にチケットノルマ/バックという「報酬体系」が浮かび上がる。

もちろん、「〇〇扱い」と表記している人がこんなことを狙っているとは思えない。しかしよく見かける表現ゆえ、なにかしらのメリットがあると考えてもいいだろう。「〇〇扱い」のもつ、ちょうどいい"圧"が、無意識的に好まれているのではないだろうか。そういう意味では、非常に優れた表現なのかもしれない。

試してみよう。

『そして怒濤の伏線回収』
時:9.15-9.24
於:新宿シアター・ミラクル
予約(淺越扱い): http://ticket.corich.jp/apply/84531/01



posted by 淺越岳人 at 00:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

8.19

仕事をてきぱきと終わらせ=明日に棚上げし、急いでシアター・ミラクルへ。
読者諸賢はご存知だと思うが(この表現いいよね)、今『ナイゲン』が上演されているのだ。未見の方は可能なら足を運んで欲しい。
もちろん解釈がどうの、ネタを遂行するという視点からどうの、"作成元"として思うところがないわけではない。冨坂と同じくおれにとっても母校の話であり、今のおれの芝居のスタイルの元となった作品でもある。ここまで濃密な思い入れがある作品は、後にも先にもない気がする。もっと言えばそれはもはや愛憎に近い。自分の手を離れた今でさえ、執着がないと言えば嘘になるだろう。
でもやはりそれは醜い執着で、しかし一方で「こうした方が面白いのに」という批評ももちろんあって、ただそんなことを超えて言えることがある。

自分たちの作品に全力で向き合ってもらえるのは"作成元"として最大のしあわせだ。とくに、『ナイゲン』は。

何度も言っていることだが、『ナイゲン』の脚本には無理が多い。とくに当時演じていた俳優の身体性・キャラクターに依存したネタが多いのは、たとえそれがウチのスタイルだとしても、上演する上での大きな障害だ。また作品のテーマ-笑わせ方-物語の構造という系に関連性が薄く、そのため結構無茶な繋げ方をしていたり、情報量が無駄に多かったりする部分も少なくない。非常に過積載であり、ひとつの戯曲として見ると、歪と言ってもいい。
だからこそ、、、と思ってしまうのはたぶん思い入れのなせるわざだろうが、グッときたのだ。

ナイゲンは「継承と発展」がテーマだ。「受け継がれる意志」の物語だ。その作品が、無数のバージョンとなってこの世で語り継がれる。上演される続けることによって、作品そのものが「継承」を体現していく。
これって、どう考えても素敵なことじゃないか?

そして上演途中で気付いたのだが、今日おれは『ナイゲン』Tシャツを着て『ナイゲン』を観に行く、ガチオタみたいなことをやってしまっている。






posted by 淺越岳人 at 00:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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